昭和49年04月28日 朝の御理解



 御理解 第9節
 「天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広く持っておれ。世界を広う考えておれ。世界は和賀心にあるぞ。」
 
 「広い心」と。ここでは「世界は和賀心にあるぞ」と。世界をつつむ程しの心、それが広い心だとこう思うですね。「心を広う持っておれ」と。そこで世界を自分の心の中につつみこむ程しの広い心というものは、どう云う働きをするものか。金光様のお言葉の中に、「今の世は知恵の世、人間が賢しいばかりで、身の徳を失うておる。世が開けると言うけい、開けるのでなしめげるのぞ。そこで金光が世界を助けに出たのぞ」と言うお言葉がありますですね。
 今の世は知恵の世人間が賢しゅうなるばかり、利口になるばかりで身に徳を失うてしもうた。世の中が開ける開けると云うけれども、開けるのじゃないめげるのぞ。と仰っておられる。今日がそのままそうだとこう思います。そこで金光が世界を助けに出るとこう、「金光が世界を助けに出たのぞ」とこう、金光様の心の中は、世界中の総氏子を助けたい。その為に教祖金光大神はこの世に出現なさったんだと云う事なんです。
 ですからそのお心を私共が受けて、継がせて頂いて矢張り、世界に真の平和がもたらされる、おかげを願わなきゃならない。これが言葉でとなえ言葉になっただけで、良いと云うのではない。矢張りそれだけの身の徳を受け、力を受けての願いでなからなければ、ただ大言壮語しておるだけではいけない。その力をねおたがいが楽しみに、力を頂いて行く事を楽しみに、身に徳を受けて行く事を楽しみに、それをしかも日々確かめながら信心の稽古をさして頂く。
 昨日、日田の綾部さんがお参りになって、先々日綾部さんのお導きで参って見えた方が二度目のお参りであった。中々のまあ普通で言う、やり手と言うですかね。ちょっと話を聞いておると、事件屋さんでもないけど、ような感じがするんです。何処何処のいろんな片付けごとをしたとかなんとか言った様な。それがその自分でも自称しておられるが、自分は親孝行だと云う事。まだ親に、この歳になるけれども、私よりもちょっと多いでしょうかねえ言い訳をした事がないし、親にだけは孝行して来た。
 そのお母さんがもう八十からでしょうか、その時仰っておられた。それがもう大変な病気で、久留米の病院に入院をしておられる。と云うのが何ヵ月か前に見えた時、それは只、そのことをお願いに来たのではなくて、私に色々話を聞きたいと言うて見えたけれども、実は、聞く所か、私に話をして下さると云う様な結果だった。「けれども折角お参りして見えたのだから、何かお願いする事はないですか。」
 また綾部さんも「お宅にはお母さんがあんな大病しておられるとじゃから、その事をお願いしなさい」と言うたら「そげな事どうでんよか」ちゅうごたる風な言い方だった。けどもまあ、親孝行な方ですから、少しでも楽になるごたるなら、お願いしてようなるごたるならば、ならお願いをして、行きましょうぐらいな事じゃったけども、私はその時に「なら私がお願いしますよ」と言うて御取次させてもろうた。もうその御取次を願われた境に、病気が治られた様な、おかげを頂いておられる。
 兎に角痛み走りしとったのが、全然痛まなくなった。それから何ヵ月間、それを途中で何回も、お導きをされた、綾部さんは聞かれて、本当に歯痒思い。おかげをおかげと思いきっとらん。あんまり簡単に頂くから。それで二三日前にまたお参りになった訳です。そん時にはもう真剣に頼まれました。その事のお礼じゃなくて、もう病気で言う痛みと云う物は取れてしまった。所がねまあだ病院を退院が出来ないのは、兎に角肩がうずいて痛む。肩が痛むと言うて、晩も眠れない様な状態だとこう。
 それはもう真から何回も繰返し繰返し「どうぞ一つ母のこの痛がるとば、良うなる様にお願いして下さい」と云う事を、何回も言われましたから「承知しました」と「もう何遍でん言わんでよか」ち言わんばっかりに、私が「承知しました」と言うた。あの日は丁度、奇跡を見せなければ、人間が分からんからと云うあの御理解の朝でした。だから私も自信たっぷりでお願いしました。昨日、綾部さん見えてからです。その翌日、すぐ病院に電話を掛けられた。
 金光様にお願いしとるとも何とも言わんなりに、「病状はどうか」と言うた所が「肩の痛みは全然なくて久し振りにぐっすり眠られた」と云う電話であった。皆さんどげん思うですか。聞きよってから、皆さんでも、神様が仰って下さる事を本当に頂いて現わして行くと云う事。そこでなら歯痒いのはお導きされた綾部さんである。「そんならすぐにでんお礼に行って下さい」とも言いたい、「そればってんまた明くる日からまた痛むならどうすんの」と仰った。言うならば是は私自身の力を感じるです。
 まあ言うならば、念力なら念力と云う物、私の念力と云う物はどの位、言うならば響くかと云う事を自分で感ずる訳です。なら綾部さんその方はお礼にもお参りにも、只電話でそう言われたばっかりだろうけれども「お礼を言うて下さい」とも言われんだろうけれどもです。それを取次がれたあなた自身はどげん思うですか。あなた自身がおかげ頂くでしょうが「合楽の先生の念力は大した物だ」と、愈々信ずる事が出来るでしょうが。愈々言うならば私を通して神様を信ずる力がいや増しに増すでしょうが。
 それがおかげですよ。おかげを頂いて、おかげを実感する。そりゃ初めの間は皆そんなもんです。それでも何遍でも、奇跡的なおかげを頂いて行く中に、是は神様のおかげと云う事を、言うなら電話を掛けられても、金光様にお願いしとるという事は、向こうが神経で起こしちゃいかんと思うて言うちゃない。そしてお話を聞かれた所が、昨日その肩の痛みがすっかり取れて、しかもぐっすり眠られたと、「実は合楽の金光様にお願いしましたんですよ」と言うて、言われたらしいです。
 けれどもがまた後が「今日はそうげんじゃろうばってん、明日からまた痛むならどんこんでけんけんで」例えばカナダのユリゲラーあの念力男です。例えばスプーンを曲げるとか止まっておる、崩れておる時計が動き出すとか云う念力なんですけども、なら時計が完全に直ってしまうと云う事じゃないでしょうが。只念力で止まっておる時計がまた動き出すと云うだけでしょう。だから後はやっぱりその時計を本当に修理しなければ、本当に動きゃしませんよ。それも一遍二遍じゃない。
 神様はそう云う働きも見せて下さりながら、本当の信心を判ってくれよと云う訳なんです。私は是はもう絶対の確信を持って、どう云うお願いでもです。人間関係であろうが、病気であろうが、御取次を頂いたが最後、もう絶対おかげの印が見えると云う事です。だから、はあー是がおかげじゃろと思うたら、それから「いっちょ一生懸命拝みもしなさい、参っても来なさい、お話も聞きなさい」と言う風に申します。私は自分のいわゆる念力と云う物をその位に信じてる。
 そう云う言うならそう云う力を持ってです。世界の事が祈れれると云う事でなからなければ、いくら祈ったっちゃ、願ったっちゃ何にならんです。力が無い者が願うたって。そこで、力を頂かなけりゃならん。「天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ」何宗とか何教とか、あれは邪教のなんのと言うて、兎に角人が助かる程しの宗教なら何でも良い。人の例えば、心を癒すだけの言うなら、教えを持っておる宗教なら何でもいいじゃないか。もうあれはいかん、是はいかんと言っておる時代ではない。
 其処ん所を三代金光様は「全教一家」と仰っておられる「全教一家」と云う事は、金光教の中でもう一家の様な、言うならどこの手続きで御座います。なんて言う様な対立なんかの無い様なと言う意味の事も、感じますけれども私は大きな意味合いでは、世界中の宗教を意味しておると思うです。言うならば人が助かると言う程しのです。例えば宗教ならばです。何様だって何教だっていいじゃないか。その宗教人が本当に手に手を取って、世界の言うなら大きな難儀に取り組まなければいけない時なんだ。
 私はその様に思う。「全教一新、全教一家」と云う事は、それぞれの宗教が例えば出来る為には宗祖がある。教祖がある。その時分に何宗だって何教だって生き生きとした働きを現わしたからこそ、沢山の信者が出来たんです。だからその教祖の時代に、宗祖の時代に、一新して変わらせて頂いてです。生き生きした力を持って、世界中の言うなら宗教人が立ち上がって、世界の難儀に取り組むと言った様な願いをです。やっぱ私は持たなければ、「全教一新、全教一家」とは私はそう云う風に思う。
 成程宗旨嫌いはせんと云う事、何教はあれは駄目、何派は駄目と言った様な事はない。天地金乃神は宗旨嫌いをせんと仰る。嫌う所かそれと言うならばです。相縁機縁で様々な信心をしておる者が相集まってです。そして本当の世界の難儀に取り組ましてもらう。それもです。取り組むその者が力を頂いて行かなければ、それは掛け声だけで大した事はないと云う事。大きなここに重たいものがあると、さあ抱え様と言うて抱える力も持たない者がです。掛け声で。
 「わっしょい、わっしょい」言うただけじゃ、その重い物が持ち上がるはずがない。例えばんなら百斤だけでも持てれる人がです。十人集まれば千斤の物が持てれる道理なのだ。だから力を頂かにゃいけん。私は「金光が世界を助けに出たのぞ」と仰っておられる事はです。私共が言うなら金光様の教えを頂いて力を頂いてです。世界総助けの言うならば働きに寄与させてもらう。参画さしてもらわなければいけない。そこでなら大きな事ばっかり言うとってしょうがないから、自分自身の所を自分一家の事をです。
 いわゆる宗旨嫌いはせんと言う信心を頂かにゃあいけんのです。自分の一家でも赤もおりゃ青もおる。こうでなからねばならんと云う事はない。それを包容しそれを包含する。それをね少しぴかっと光る位な私は信心を、家の中で一人頂いたら有難いと思う。昨夜私は、遅くなんとか、関八州様とかあれはなんとかいう映画がやっておりますね。緒方 拳とか何とか言う、映画それもう途中からでしたから、所が私は非常に感動した。と言うのは、新国劇の辰巳柳太郎が出ていた。
 もう年寄のやくざを演じておった。もうその舞台で鍛えたか研いたと云うか、その演技のすばらしさに私はついじゃなくて、本当に感動した。特に例えば辰巳柳太郎と言う人は国定忠治なんかが十八番と言われておる、もう何十年間と云う、そう云う劇で名を売った俳優です。歳を取った所謂やくざのその何と言うか、演技力に驚いたと言うよりも、感動し続けたです私は昨日は。ですから他の俳優は皆上手です。ただ一遍通りただ上手と言うだけだ。けれどもピカッと光るものがない。
 ですから辰巳柳太郎一人が出ておる為に、その何とかと云う映画、題名は判りませんでしたけれどもね、その映画全体に生きてしまう。たった一人ピカッと光からです。皆さんの家庭でもそうです。信心なさっておられる中心になる人がです。本当に少しはピカッと光る位な事になって参りますと、その一家が引き上げて来るです。家族中が光りゃあまだよか。そう云う家族中が光りだしたら、今度は隣近所に光を及ぼして行かにゃいかん。そういう光が、私は、今混沌としておる世界の難儀というものにです。
 一つの光明を与える。また現わす事が出来るんだとこう思うです。そこでです。そう云うピカッと光る様な信心とはどう云う信心をしたら良いのかと。昨日ある方が子供さんのお届けをされた。何人もおられる中に、あれはもう中々親孝行です。一人のがもう言う事聞かん。一人のがどうと、一人一人のお届けがありました。そしたら私の御心眼に頂くのは、『松の木に、今は丁度芽が出ておるでしょう。
 松の木に芽が出とるこう、松の木に芯が立っとるでしょう』その人が中々、何ちゅうですかね、神経の細いまあ行き届いた方なんです。ですから家の中でもかたぁくせにゃ好かんとです。もう子供達も自分の思うごとせにゃ好かんとです。所が思うごとなるともおるけれども、はみ出しとうがおるわけです。言うこと聞かんとがおるとです。もう本当にもう、打つ叩くごたるち、言うこつ聞かんから、そしてその打つ叩くごたるその息子の事のお願いを昨日なさったんです。
 そこで私はここでは黙って治める事やら、全ての事に御の字を付けて頂くと言った様な事を話しました後に頂いたのが、その松の芯ですから。私は是も先日テレビでそれを見とりました。鉢植えにしておる松の木に、芯が立つそしたら、それは適当に摘んで行かなければ、どんどんあの芽は松の木がどんどん伸びるんだそうですね。だからあれを放って置くと、鉢植えなんかにいわゆる箱庭的と言うかね、例えば庭木の程度の物だったら、そして剪定を加えて行かなきゃいかん。鋏を入れて行かなければいけない。
 でないとちょっと芽が出る。もうそこに枝が出てその方は言うならば、箱庭の中で育てたい。鉢の上で鉢植えの様な人間に育てたい。それで曲げたり摘んだりせにゃ出来んと言う訳なんです。それを教育だと思うておる。私頂くのはそうではない。そう云う鉢植えの様な物じゃなくて自然に根を下ろして、そしてそれこそ欝蒼(うっそう)と茂る様な大きな松の木になる為には、摘んじゃならんと云う事。
 ちっとは目に余る様な事があっても、言うちゃあならんと云う事。只神様のお育て自然の働きに委ねなければいけないと云う事。成程枝振りが悪いかも知れませんけれどもそれこそ、欝蒼とした大きな松の木になる訳です。大きなおかげを頂きたいならばです。私は是を思いました。今の金光教が本当に、この鉢植え的な金光教の様に思うです。ああしちゃいかんこうしちゃいかん。金光教はこうでなからにゃならんなんて言うでしょう。だから、いっちょん大きくならんとです。摘んで行きよる。
 沢山人も助かって行きよるけれども、大きくは一つもなって行きよらんのです金光教は、だから自由自在にちっとは枝振りが悪いかったっちゃ、ちっとははみ出しとってもですそしてそれが大地に根をしっかり下ろして、愈々空を益すような大きな大木になる様なおかげを頂く為にはです。摘んじゃならん言うなら言うちゃあならん。だから大きくなる為には、ここを言うちゃあならんと云う様な修行をさせて頂かなければ、いわゆる「世界を広う思うておれ」とか「世界は和賀心にあり。
 とかと教祖は仰っておられるがです。そう云う大きなものでなからなければ、世界を包む事も出来なければ、「世界は和賀心にある」なんて言う事は言えない事になるでしょうが。是はだから私共の日常生活の上に於いての、その修行においてです。自分の所謂人間が賢しいばかりでもう賢しい人程です。子供の教育なんかでももうこうしちゃならんこうしちゃならんと言うです。利口な人程その辺の所をです。
 神様の言うならばお育てにお任せするだけの信心度量と云うか、信心が出来なければ大きくはなれません。本当に神ながらなものは育ちません。赤もあって良し青もあって良い。様々の色もあって良い。昨日高橋さんのお届けの中に、沢山の職人のおります中に一人どうも遊び人風の、余り言う事を聞かんとがおるけんで、まあだ一回も自分から首切ったと云う事はない。神ながらに受けて行かれる訳です。お許しを頂いて雇うた職人ですからけれども是ばっかりはどうも、そのいかんごたると云う訳なんです。
 「けれども高橋さんそれでなからできん時が来るで」と私は申しました。言うならそう云う頂き方なんです。しかもそれを確信に満ちて、それをそう頂いて行くと云う事なんです。はあこの芽が出とる。これを摘まなければ箱庭とか又はね、庭園なら庭園に植えてあるとならばやっぱり摘まにゃいかん。鉢植えにどもしようと思うたら愈々曲げたり、摘んで行かなければ太り過ぎて困る。それは成程自分の思う様に枝振りもされるだろう。けれどもそれではね、人間が賢しいばかりでです。
 只本当に小さい箱庭眺めている様な小さな事しか出来ん。世界を眺めると云う目は開けん。お互いがね賢しいだけではいけん。身に徳を受けて行くと云う事が大事。「世の中が開けると言うけど開けるのではなし、めげるのぞ」と事実めげて行っておるのだ現代。それを例えば、救う為に金光が世界に出たんだとこう言われるのですから、世界助けの為に出られたのであるから、その金光様の本当の御教えを奉じて、私共がその御用に充たらなければいけないと云う事が判るでしょう。
 そして自分の力自分の力を一つ確かめ確かめです。昨日の綾部さんのお届けじゃないですけれども、だからおかげを頂いて、おかげをおかげと受けきらんで、信心にならんならもうそれは仕方がないじゃないか。けれどもそこに御取次をした人が、そのおかげの事実を目の当たりに見てです。又その人から聞いてです。まあ全く神様ちゃ間違いないなと云う信が出来たらそれで良いじゃないか。「天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ」と云う所からです。
 例えば何宗何派は行くの行かんのと言った様な事に対する御理解であろうとこう思います。けれどもそれを、例えば今日は私はもっともっと、金光様の本当のお心の底の所に触れた感じで今日は聞いて頂きました。金光様は最後に仰っておられる様に「世界をわが心の中にある」と思うておられる程しの、お心を以て説かれたのですから、言うならば「世界を助けるためにこの世に出た」と仰せられる程しの事ですから。
 私共もそう云う心を頂かしてもろうて、大きな心を頂かしてもろうて、大きな力を頂いて、世界の難儀を願わしてもらう、祈らしてもらうおかげを頂きたい。そのためにはまず、私自身の心から自分の、言うなら、念力とでも言うか、自分の信心の力、徳とでも申しましょうか、それがどの位に力を得て行きよるかと云う事を確かめて行く事の為に、愈々黙って治めると云う事の素晴らしい事。
 そこで、枝が出過ぎると、もう摘まにゃいかんてんなんてん賢しい心を使わずにね。神様が自由自在に伸ばしておって下さる思う様な心で、それを受けて行くと云う事がです。身に徳を受けて行く、身に力を受けて行くおかげになるのである。ですから、まずは自分自身の心の中に、または自分の一家の中に、少しはましな、ピカッと光る様な、昨日私が映画で観た、辰巳柳太郎のそれではないですけれども。
 辰巳柳太郎一人がもう引抜きで、抜群のその演技力が、その映画全体を素晴らしい物にしとる。ですから、折角こうして毎朝、信心の稽古に通うて来るのですから、「もう家のお母さんばっかりは、信心しよったっちゃ何もならん」と子供どんから言われる様な事じゃでけんです。それこそピカッと光るものがね、現わして行けれる様な信心を目指さなければいけんと思うですね。
   どうぞ。